2011年9月21日水曜日

大壁画「秋田の行事」誕生、美術館の壁画に … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 3


 昭和11年3月の秋田訪問の際、藤田は歓迎会の席の挨拶で「世界第一の芸術家、大日本帝国・藤田嗣治の名において、1923年(大正12年)、バチカン宮殿で、ローマ法王に謁見たまわった。エリゼ宮で、フランス大統領にも勲章をもらい、ベルギー皇帝からも栄誉を授かったのであります」と話し始めたという。藤田の語ったことはすべて真実であったが、伝説では、この話に平野政吉がカチンときて、「世界一というなら世界一の絵を描いて証拠を見せろ」と詰め寄り、藤田が「それなら、世界一の大きさの絵を描いて見せましょう」と言ったのが、「秋田の行事」誕生のきっかけであると伝えられているが、晩年、平野政吉は、実際は、藤田の迫力の前に圧倒されたのが真相であると語っている。「秋田の行事」は、藤田嗣治と平野政吉の固い友情、強い信頼関係の中から生まれたものと見るべきだろう。
 この年の7月以降、藤田は度々秋田を訪れ、平野政吉の美術館建設構想を受け、美術館を飾る壁画を制作することを明らかにした。その後、平野の案内で秋田市内の竿灯、日吉八幡神社山王祭などを見学し、スケッチをするなどした。また、平野は藤田のために、千秋矢留町に別宅を用意し、藤田の長期滞在に備えた。藤田が秋田に訪れるたびに二人は美術館の構想を深めていき、「秋田を第二の奈良に」「正倉院、法隆寺を秋田に拵えるつもりで」「壁画は奈良・東大寺の大仏に匹敵する世界一大きなものに」と話し合われていった。

 そしていよいよ、昭和12年2月21日、平野政吉の米蔵で後に「秋田の行事」と言われる秋田の全貌を描いた壁画が描かれることになった。藤田は一気に15日間でこの壁画を描き上げた。興が乗った時は三晩位の徹夜も度々あったとのことだ。完成後、藤田は平野に「平野さん、無駄な材料を使わせて申し訳ない」と言って、紫の絵具一個と白の大ビン二個だけを差し出したと言う。平野は最初に藤田から言われた量の絵具を渡しただけだったので、藤田の天才ぶりに改めて関心したと言う。完成後、藤田は「この大きさと時間の記録は、世界が終わるまでまで破られまい」「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」と興奮し、語っていたとのことだ。
 「秋田の行事」は、昭和12年当時の秋田の人々の暮らし、竿灯、梵天などの年中行事、祭りが大迫力で描かれ、秋田の産業、歴史まで描かれている作品である。藤田はこの壁画を「秋田の全貌」が直ちに解るように、あらゆる風俗を時代的な意味に従って洩らさず描くという意図で描いた。藤田ならではの線と色彩が融合し、生命力、パッションが画面に溢れている。

 「秋田の行事」は、二人で構想した美術館に飾る壁画として描かれたものである。その後30年の時を経て完成した美術館は、日本宮殿を思わせる屋根の形、正倉院を模した高床式の造りなど藤田嗣治、平野政吉の構想を生かしており、「秋田の行事」は藤田に言われた通りの展示の仕方(注)になっている。
 平野政吉美術館とそこに展示されている「秋田の行事」は、藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史を示す証であり、未来にこのままの形で伝える義務が私たちにある。この貴重な文化財を移設によって、価値を壊すようなことがあってはならない。


(注) 「秋田の行事」は、藤田嗣治の助言により、床から6尺(約1.8メートル)上げた位置に据え付けられ、両端を少しずつ迫り出して据え付けられている。




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